「葭の髄から 天皇さんの涙」part2

六十郎の伊藤正尚です。

今年に8月3日に、文化勲章受章者で作家の阿川弘之が94歳で亡くなりました。元日本帝国海軍軍人で志賀直哉に師事し、海軍提督三部作で有名です。ただ、私自身は三部作を読んでいませんが、彼が月刊誌の「文藝春秋」に書いていた随筆は読んでいました。その随筆をまとめた「葭の髄から 天皇さんの涙」(2013年)が文筆活動の最後となっています。ただ、娘の阿川佐和子のエッセイや講演では、最近まで、良く阿川弘之の話題が出ていました。

志賀直哉に師事した関係かもしれませんが、時代に媚びる事のない正確な文体や表現を目指した人でもあった様です。よって、娘の阿川佐和子が文筆活動を始めた時、特に、“てにをは”に厳しかったと阿川佐和子本人の口から聴いた事があります。最も、晩年には娘の「聞く力」がベストセラーとなった時は、大変喜ぶと共に次回作のタイトルを「叱られる力」にする様に強く推奨した様です。阿川弘之の癇癪は有名で、阿川佐和子のエッセイには何時も怒っている場面が出て来ました。

11月24日に帝国ホテルにて「阿川弘之のお別れの会」が行われたとの記事を読みました。生前、阿川弘之は遺言代わりに葬儀等はしない様に家族に申し入れていた様です。しかし、子供達はあえて逆らって「お別れの会」を開催した様です。やや偏屈な阿川弘之が、素直に遺言を守るとかえって不機嫌になるかもしれないとの理由を、長男の阿川尚之が語っています。つまり、阿川弘之は、ユーモアがありながらやや偏屈な、古い日本人なのでしょう。

以前、雑誌の対談で平岩弓枝が、阿川弘之に可愛がってもらったと娘の阿川佐和子に語っています。勿論、ただ可愛がるだけでなく、平岩弓枝の文章に“喝”入れていた様です。特に、文章の終わりを「だった」と締める事を嫌い指摘された様です。つまり、「であった」と表現しなさいとの指導もあったそうです。馬が走る様な文章では無く、「であった」と表現する事で文章がより生きる訳です。この点、私も反省し、以後、馬が走る様な文章はやめます。日本語は難しいのですが、勉強のやり甲斐もある対象です。

では。(2015,11,26)
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